イトウとヤマメ
エゾトドマツの巨木が点在する森。そこにある熊笹をかき分けながら進むと、急に視界が開け、ラクビー場ほどもある広大な空間が現われました。目の前にあるのはミズバショウの大群落です。雪解け水の細い流れがキラキラと光る湿原一杯に、ミズバショウの花が咲き乱れていました。まるで楽園に足を踏み入れたかのようです。
稚内空港から車で小一時間ほど南下すると、サロベツ原野(日本海側)や猿払原野(オホーツク海側)といった原野が広がります。原野には森林部分もありますが、そのほとんどはアクセスもままならない湿原や沼、蛇行を繰り返す川などで構成されていて、手つかずの自然や魚たちの営みが残されています。
私は毎春、イトウの産卵行動を撮影するためにこのエリアを訪れています。この場所で出会った最大のイトウは推定140㎝。婚姻色で真っ赤に染まったオスでした。ドライスーツを着て水中に潜っている時に遭遇しましたが、マスクをしていると水中では物が30%ほど大きく見えますから、まるでサメくらいの巨大魚に見えました。大きさと迫力に圧倒され、体の震えが止まりませんでした。
そのイトウのペアの後方には別の魚がいました。10㎝前後の小さなヤマメたちです。ねらいは産み落とされるイトウの卵。ヤマメにとっては御馳走なのでしょうが、イトウは“幻の魚”とも呼ばれるほど希少なので、せっかくの新たな命が食べられてしまうのを目にするのは複雑な気分です。
後日、猿払村の友人とヤマメ釣りに行くことになりました。すると呆れるほど簡単に釣れ、2時間もしないうちに50尾ほどのヤマメを釣ってはリリースしました。元気に流れに返してやりましたが、イトウの卵を食べていたヤマメたちをちょっとだけ懲らしめた気分でした。
その釣りの帰り道、ミズバショウの楽園に横たわる倒木に腰かけて休憩しました。友人が入れてくれたコーヒーの香りが極上の時を演出してくれます。彼はイトウはトゲウオやウグイなどの他にヤマメもエサとして食べていること、そして、このあたりのヤマメはあと1ヵ月もすると海へ向かい、1年後に立派なサクラマスになって川に帰ってくるといったことを話してくれました。
まだ小さなヤマメたちにしてみれば、海に旅立つ前に体力を付ける必要もあったのだと気がつき、イトウの卵を食べているシーンだけを見て憤慨していた自分に赤面しました。
魚同士の関係性が見えれば、新たな魚の世界が見えてくるかもしれない。そんなヒントを彼と魚が教えてくれたのでした。
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