今に伝わる庄内釣りの文化
日本の釣り文化を語る時、欠かせないものに「庄内藩の磯釣り」があります。日本最古の釣り専門書とされる『何羨録(かせんろく)』が書かれたのは江戸時代の1723年(享保8年)。5代将軍・徳川綱吉の治世ですが、ようやく訪れた長い太平の世によって、趣味として釣りが各地で深められていきました。
中でも特徴ある文化が生まれたのが庄内浜です。有力な譜代大名であった酒井家の治める庄内藩14万石は、当時から良質な米どころであり、藩主と領民の関係も良好でした。しかし、幕藩体制が確立するにしたがい、藩士の尚武の気風がしだいに失われていくことを憂えた藩では、心身の鍛錬につながる武道の一助として磯釣りを奨励しました。
そのような所は全国を見ても他になく、藩士はもちろん、藩主自らも好んで磯釣りに出かけたといわれます。のちに「庄内釣り」と呼ばれる釣りの舞台は日本海です。現在の鶴岡市近郊に広がる磯浜の海岸でねらえる、クロダイ、マダイ、イシダイといった魚が獲物でした。
鶴岡の城下町から沿岸の磯浜までは、近い所でも12kmあります。磯釣りに必要な1本ものの長い竹竿は藩士たちの手作りで、それを他の荷物とともに担ぎ、山越えの道を徒歩で往復しました。釣りによい明け方に間に合うためには、夜半の出発になることも珍しくなく「夜目をならすことは、夜戦や夜候の助けになり」という記述も残っています。6~7mという竹ザオは庄内産の苦竹(にがたけ)を材料に丹精を込めて作られ、「名竿は刀より得難し」とまで言われるようになりました。そして釣った魚のことは「勝負」と呼び、その記録である摺形(魚拓)も盛んに作られました。
そんな庄内釣りの世界を今も感じられるのが、鶴岡市の致道博物館です。かつての鶴ヶ丘城三の丸の敷地内に、歴史のある複数の建物が移築されており、その1つである旧庄内藩主御隠殿に多数の資料が展示されています。酒井家14代当主・酒井忠宝(ただみち)が庄内浜で釣った魚の魚拓をはじめ、名人と呼ばれた藩士による庄内竿、庄内釣りの風景画、明治になってからも盛んだった磯釣りの案内本などが展示されています。
先人たちが積み重ねてきた釣り文化の豊かさには改めて目を見張ります。7月上旬、この場所から今も変わらない庄内浜の魅力を知る旅に出ました。