ALOHA 悲しみも喜びも
とある打ち合わせで編集者と意見が合わず、納得できないまま帰ってきた。車を運転しながら、私が間違っているのだろうか、いや書くのは私なんだから折れてはいけないなどと考えをめぐらせた。自宅近くの海岸線に差し掛かった時、つけっぱなしのラジオからハワイアン・ミュージックが流れてきた。余韻が印象的なゆったりしたギターの音色は、それだけでハワイを連想させる。そんな音色にのったハワイ語の響きもまたたおやかだ。言葉も歌詞の意味もわからないのに、固くなっていた気持ちがほどかれた。あの独特のギターはスラック・ギターといって、弦をゆるく張るチューニング方法と奏法を称するのだそう。
本来なら「稲村ヶ崎公園前」という信号で右折して家に向かうところだったが、そのまま江ノ島方向に向かって海岸線に車を走らせ、余韻が余韻を呼ぶ音色に聞き入った。ほんの少し遠回りして、家に着く頃には鼻歌が出るくらい気持ちも回復していた。ギターの音色やハワイ語の響きに導かれ、なるようにしかならないなんて思ったりもした。
「アロハ」といくつかの単語ぐらいしかわからないけれど、ハワイ語の響きが好きだ。
ハワイには自然を表す言葉がたくさんあると聞く。一説によると雨を表す言葉はおよそ130種類、風を表す言葉は約160種類なんだとか。暮らしが自然と密着していた名残なのだろう。たとえば、「カニ・レフア」は「レフアの花が雨を飲む」との意味で、ハワイ島のヒロに降る霧のような雨のこと。自然の美しさだけでなく、その移り変わりや怖さも受け入れて生活していたと想像する。ああ、若かったら一つずつ覚えるのに。
ハワイ語は英語とともにハワイの公用語であるが、年々話す人が減ってきているという。どうにか、この美しい言葉を絶やさないで欲しい。
そんなことを思うのは、ハワイには勝手に罪悪感を抱いているから。
かつてハワイは大学の卒業旅行の定番だった。私が大学を卒業したのは1987年で、悪名高いバブル時代が始まる直前である。この翌年、安田火災海上保険がゴッホの『ひまわり』を53億円で落札したことは右肩上がりの日本経済を象徴するエピソードだった。
当時の大学生は遊ぶことばかり考えていて、卒業式の数日後にはワイキキに集合するのがよく見られる光景だった。私も御多分に洩れずクラスメートと一緒に飛行機に乗り、他校の友達とワイキキで待ち合わせをした。1週間の滞在でしたことといったら、ビーチで日焼け、ディスコでパーティー、免税店で買い物、この繰り返しだ。六本木がそのままワイキキに移ってきたかのように、知った顔だらけだった。ああ、そうだ、タンタラスの丘までレンタカーでドライブにも行ったっけ。揃いも揃ってこんがり焼けた肌にタンクトップを着た私たちは、きらびやかな夜景にはしゃげるだけはしゃいだ。借りていたのは日産のフェアレディZのTバールーフ。観光らしいことはタンタラスの丘ぐらいで、私たちは刹那的な消費ばかり重ねていた。
今になってハワイに申し訳なく思う。ハワイの本来の良さも文化も知ろうともしないで、ただ自分たちの自堕落な旅行の舞台として利用しただけだった。
ハワイを象徴するものの一つにハンドサインがある。親指と小指を立て、真ん中の三本指を折って手の甲を外側にして、手を揺らすジェスチャーだ。場面によってさまざまな意味で使われるが、前向きな気持ちを表すものである。このサイン、かつてサトウキビの工場で働いていた男性が起源だという。1990年、機械に挟まれて指を三本失ってしまった彼は汽車の保安員になった。駅の手前で速度を落とした汽車におもしろがって飛び乗る子供たちに、彼は声をあげ手を振って止めようとした。その際の指が二本しかない彼を真似た子供たちの仕草が広まったものだそう。
今度、この地を訪れたら、悲しみも喜びも吸い込んだ空気を存分に味わいたい。
- 作家プロフィール
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- 甘糟りり子
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横浜生まれ、鎌倉育ち。大学卒業後、アパレル会社を経て文筆業へ。独自の視点を活かした小説、エッセイやコラムに定評がある。著書に『産む、産まない、産めない』(講談社文庫)、『鎌倉の家』(河出書房新社)、『バブル、盆に返らず』(光文社)など。